12.6 EXCESと文化秩序 J-POPの型とシミュラークル 創作について
一、
浅田彰読書メモ
①
生命の場合:エントロピーの大海の只中のネゲントロピーの小島
ピュシス(自然・生命の秩序)→サンス(方向)を持つ(あるシグナルに一定の反応をする)
↑
EXCES(ズレ)
↓
人間の場合:カオス→サンス(方向)を持たない→無秩序
ピュシスの代わりに象徴秩序(文化の秩序)→恣意性(ソシュールの記号学)
象徴秩序→カオスを隠蔽(構造主義の弊害)
構造主義の問題点:スタティックな、共時的なものとしてしか分析できない(ダイナミズムを欠けている)
象徴秩序← → カオス
↓抑圧
サンボリック← →セミオティック(欲動)(例:祝祭)
Q:サンボリックはセミオティックを必要とするのか?(秩序と混沌の弁証法)
A:バタイユの理論:秩序とカオスの間で反復運動があるような解釈
A:ラカンの理論:想像界→自我が分裂→鏡像段階→象徴秩序(=大文字の他者=象徴界)
コード化:【原始社会】贈与の円環(一般交換→レヴィ=ストロース)
超コード化:【専制国家】無限の負債、王の出現(埋めようのない負債(欠如)→ラカンの理論)
脱コード化:スタティックな構造を避け、欲望を「資本」を通じて方向づける(それぞれの利益(私欲)を追求→But,秩序が散乱せずに済む)
小さな物語が多元的。複数的な乱立。
大きな物語の失墜。
二、
工業製品あるいはモデルとしてのポップス
シミュラークルをおさらいすると:
模造:階級の固定が緩やかになり、市民が貴族を模倣し始める
→本物と偽物の区別が生まれる(オリジナルとコピーの対立構造)
生産:工業革命以降、大量生産が可能になり、「オリジナル」の概念は意味を失い、その代わりに生産の最初の核としての「モデル」が誕生する。
オリジナルとの類似・アナロジーによって規定されるのではなく、単純に機能や仕組みによって規定される。
第一の領域の記号「模造のシミュラークル」は、その記号の作成者がオリジナルに至らんとする目的を明確に有していた。意味作用の主は他ならぬ私たち人間であり、人間の意思が模造の記号を作っていた。
ところが、第二の領域の記号「生産のシミュラークル」に入ると事情は一変した。人間は意味作用の根源としての地位を、機械化されたプロセスに奪われてしまったのである。
機械化されたプロセスは、無限に同じ商品=シミュラークルとなった商品を無限にアウトプットし続ける。そのプロセスの中で、かつて生産主体だった人間もまた、プロセスの歯車としてシミュラークルになる。
三、
過去
日本生まれ、中国育ち。小学生の時は漫画家になる夢を抱き、日本に旅行する時には小学館と集英社を訪れた。中学校に進学すると、クラシック音楽に没頭するようになる。当時所属していた音楽のコミュニティの排他的な雰囲気をきっかけに、正統であるとそうでないものの二項対立に関心を持ち始める。独学で作曲を学び、高校は日本のピアノ科に進み、
大学は作曲科に進んだ。
現在
「正統」であることにうんざりして、アカデミックな場にいながらも、その引力から逃走し続けている感覚が近作には多い。これは、意図せず作品にダイナミズムを与えているようにも感じた。
とりわけ大衆文化に氾濫する様々な「型」や「常套句」のナイーブな流用を出発点とする作品が多い。例えば、自作「ゆめうつつ」と「たったふたりきり」のような、現代音楽の文脈で「流行」のコード進行をそのまま音高素材として採用した作品がそうである。
未来
とりあえず、今の創作を持続させることです。